今日は中国語の先生の誕生日で似顔絵を送った。似顔絵渡すってやばい?と思ったり思わなかったり。何日かあーー!!ってなって、結局渡せた。いえい。いえーい。
でもやっぱり似顔絵単品は重い気がしたからお菓子もセットで渡した。
たべっ子どうぶつチョコ味と、コーンポタージュのスナック(スーパーでよく売ってる鍋のキャラクターが描いてあるあれ。指についた粉を舐めるのが好き)
それで今日クラス終わったあとに渡したんだけど、恥ずかしくて感想も聞かずに帰ってきた。なんか今考えたらその行為自体恥ずいな。
その中国語の先生、日本語をちょくちょく喋ってくれるんだけど、「おはようございま”した”」と間違えて覚えてるっぽい。彼が「おはようございました」を言う度に心の中で吉本新喜劇っぽくずっこけてる。可愛い間違えだから最後の日に伝えようと思ってる。やな生徒だ。
何日か前に書いた↓についてまた考えた。
「誰も共感してくれない、誰も自分のこと分かってくれない」と孤独を感じる瞬間はあるけれど、「大切な人は自分のことを分かってくれてるんだ」と感じる瞬間もある。
これの「分かってくれない」の部分がしっくりこないのはなぜだろうと考えたんだけど、人を分かることはまず無いし、そもそも今まで人を分かろうとしたことがないからだ。
私の場合、人と人って「分かる分からない」じゃなくて、「翻訳するしない」が近いんじゃないかと思う。大切な人(友達)は”翻訳者”に近い気がする。その人の趣味、好きなもの、考え方など、ツールを使ってコミュニケーションを試行する。同じニュアンスを100%感じることはできないという前提のもと、あえて翻訳しないこともあったり、視点や言葉を変えて近づけようとする。
「分かる」という言葉は少し重く感じてしまう。
「大切な人は自分のことを分かってくれているんだと感じる瞬間がある」は、「自分を翻訳してくれた人がいるんだ、翻訳を試みてくれているんだと感じる瞬間がある」がより近い気がする。
ドラマの仁が見たい(「籠の中の鳥でやんした」のあれ、あの感動的なドラマをその台詞で例えるのやだ。怖い赤ちゃんのシーンがちょくちょくでてくるあれ、後者はもっとやだ。って、くだらない…)。アニメの平家物語をもう一回みたい。あと、映画の涙そうそうも。五島列島の学校で手紙を合唱する映画もみたい。(タイトルなんだっけ…)
あと真夜中のピクニックの続きを読みたい(最初の休憩ポイントで靴下脱ぐところで止まってる)著者が思い出せない。
調べた。恩田陸。あー
あとあと!マクドナルドがSNSで公開してる伝記風漫画が最近の楽しみ。
これら週末に全部やりたいな。結局一つもできないだろうけど、映画は観たい。
あ、あと台中を紹介する動画を撮りたい!これはじっくり動画を集めていきたい。